「山形県紅花協議会」【深川説】山形県の紅花は、いつ・誰が初めてたのか?

【深川説】
山形県の紅花は、いつ・誰が初めてたのか?

最上義光分限帳全
「歩行小姓」の最後に、特別枠で
伊賀衆十三人に石・知行も与える

最上義光分限帳全
「御扶持衆」の最後に、特別枠で
伊賀衆十三人に石与える、壱人五人扶持
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何故に?史実は?

室町時代末期当時の日本主要紅花生産地は、伊賀・武蔵・下総・相模でありました。
足利氏の血縁でもあり関西に精通していた「最上義光」公は、
伊賀から13人を(半農半武)として重用し紅花の種や生産技能者として紅餅まで加工し環境整備し、特に(湊さかた)まで征する事は重要課題でした。
見事目的を果たしました。
山形県の基盤は「最上義光」公が創ったのです。
現代に至るまで影響を与えています。

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「最上義光」公の人間像?

寺社仏閣を擁護し寄進します。

調和と協調を重視します
調略を重視し、和解を目的とします
されど遂行の為には、最小限の犠牲に留める謀略も厭いません。

領民を大切にしました、事実最上家時代では(一揆)は無かったのです。

誓願・嘆願として、むしろ情報を糧としたのです
堰・大堰を庄内に配備し、穀倉地帯に変身させます。

庄内を征する期には、谷地城から背後を突けうとした庄内軍を包囲し一人の命を絶たずに勝利し、最上川を征します。

文武両道に優れ和歌に勤しみ、変わり行方中央政権と常に融和しました
明治維新時の山形県設立の基礎を創りました。

一般社団法人「日本紅」深川

 

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